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17/1/2006 大好きなキャラクター:周泰
(史実的人物解説) 周泰(しゅうたい)生没年未詳 字は幼平。九江郡下蔡の人。演義に拠れば、もともと蒋欽とともに九江周辺を荒らしまわっていた湖賊の頭目で、孫策の江南平定の際に孫策に帰順したことになっているが、正史に拠れば孫策が袁術の庇護下にいた頃に側仕えとして仕官したひとりであった。孫策には慎み深く仕え、従軍してしばしば手柄を立てたと言う。孫策が会稽郡に入ると、周泰は別部司馬に任じられ兵士を預けたが、孫権は周泰の人となりをいたく気に入り、孫策に願って自分の配下とした。孫策が九江の六県の山越討伐に出向いていた際、孫権と周泰は宣城に居たのだが、その兵力が少ないことを知った山越の不服住民が大挙して押し寄せ、孫権の身はたちまち危うくなった。周囲の者が慌てふためく中、周泰は勇敢にも身一つで孫権を救い出し、不服住民を撃退したものの、全身十二箇所に傷を負って意識不明の状態に陥った。一命を取り留め、戦線に復帰した周泰は江夏攻略、赤壁の戦い、南郡攻撃といった主要な戦いに参戦し、曹操と合肥・濡須で争うようになると濡須の督に任じられ、その守りに当たった。彼が濡須督であった頃、その部下には朱然や徐盛が居たが、彼らは寒門(身分の低い家柄)の出である周泰を軽んじてその指示に従わなかった。それを聞きつけた孫権は濡須に赴いて酒宴を開き、その席で周泰に衣服を脱ぐよう促し、全身の傷ひとつひとつの謂れを説明させた。この一件があって後、朱然らは周泰に感服し、以後その指示に良く従うようになったという。荊州攻略の後、周泰は候に奉ぜられ、名誉職としての漢中太守に任ぜられた(このことから、孫権は蜀攻略も目論んでおり、実は夷陵の戦いは蜀攻略戦争だったと言う説もある)。正史に拠れば周泰は黄武年間(二二二~二二九)の間に死んだ、とのみ記されており、死んだ時期と原因、享年などは一切不明である。ただ彼の死後、息子の周邵が軍を預かり、石亭の戦い(二二八年)で活躍したと言う記事があるので、おそらくはそれより前の二二七年ごろに世を去ったのではないか、と思われる。 回應 (4)
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